Philia's History   10year anniversary


Philia's History Vol.1

2020年4月をもって、フィリアの会が活動を始めて、10年目を迎えることができました。
10年目という節目を迎えることができたのも、会員の皆さんをはじめ、理事となって会の活動を内から支えて下さる方々、寄付など外から支えて下さる方々がいて下さったからです。
これからも感謝の気持ちを忘れず、活動を続けたいと思います。
ここで原点に立ち返り、新たな気持ちでスタートするために、10年間の活動を振り返ってみたいと思います。
目次
1.2010~11年編
①会を立ち上げたきっかけ
Ⅰ.障がい者自立支援法(2006年4月施行)の成立
Ⅱ.コムスン問題(2007年6月)
Ⅲ.親の高齢化
②つくる会設立
③碧海5市長面談 厚生労働省政務官面談 安城市議会面談 
④東日本大震災
⑤署名活動
2.2012~13年編 未定
3.2014~15年編 未定
4.2016~17年編 未定
5.2018~19年編 未定


不定期且つ、何回の連載になるのかわかりませんが、順次掲載していきますので、興味のある方は、読んでやってください。

 

Philia's History Vol.2

①会を立ち上げたきっかけ
2010年4月、和田米吉市会議員と共に、「NPO法人フィリアの会」の前身である「岡崎市・碧海5市地域に身体障がい者入所施設をつくる会」を立ち上げました。
きっかけは、
Ⅰ.障がい者自立支援法(2006年4月施行)の成立
Ⅱ.コムスン問題(2007年6月)
Ⅲ.親の高齢化
の3つです。
Ⅰ.障がい者自立支援法(2006年4月施行)の成立
2005年8月、小泉政権が郵政民営化を掲げ、解散総選挙に踏み切り、大勝しました。その陰で成立した 1.障がい者自立支援法により、本来、国が保証すべき福祉制度に、応益負担と市場原理が持ち込まれました。
応益負担とはサービスを受けた者が費用を支払うという、至極当たり前な原理原則ですが、障害により働く機会に恵まれない者たちにとっては、死の宣告のようなものでした。
重度であればある程、多くのサービスが必要になり、費用負担が増えてしまいます。支払い上限は設けられていたものの、当時は障害年金のほぼ半分を取られていました。当時、退職して間もなかった私には辛いものがありました。
なぜならば軽度の障害なら、福祉サービスの負担も少ないし、働いて稼げるのに、重度だと働けず稼げずなのに、福祉サービスの負担も多いという、2重苦だったからです。
これでは障害は自己責任なんだと国から言われたのと同じです。障がい者として生まれたかった者など誰一人いないのに。
現、障がい者総合支援法においても、収入に応じて負担額が決まるようになり、収入の無い者は負担金は0になっているので、ほぼ応能負担になっているが、法律上は応益負担のままにされいるで、一部の中度の少ししか働けずあまり稼げない人たちが、福祉サービスの負担を求められるケースがあるようです。私は福祉サービスの負担を障がい者自身に求めるのは、原則としてあってはならないと思います。植松死刑囚のような考え方を否定するには、この問題を看過できないはずだと思います。
つづく
Philia's History Vol.3

Ⅱ.コムスン問題(2007年6月)
 自立支援法成立の数年前だったと思います。24時間介護を謳い文句にコムスンという企業が進出して来ました。
私は夜間の寝返りをしてくれる事業所を探していたので、これ幸いと即行で夜間サービスを利用することにしました。
最初のはとても良いスタートでした。職員の方たちとも仲良くなり、日中のサービスも利用するようになりました。
あまりに調子よくやっていたので、コムスンの社内誌にカラー写真付きで紹介される程でした。
しかし、仲の良かった職員さんが一人二人と辞めるようになり、やがて人の出入りが激しくなり、トラブルがいきました。
そうこうしていると、テレビでコムスンの介護報酬不正請求問題が報道されるようになりました。
私はこの報道を目にした時、非常なショックと共に、今後どうなるのかという不安で頭が一杯になりました。
そしてあっさり訪問介護事業は他社に譲渡されてしまいました。しかも譲渡先の事業所は夜間のサービスを当面はやらない方針だということでした。
コムスンは代替えの事業所を探してくれることもなく、無責任な形で撤退していきました。
私はこのとき介護難民になりました。それから夜間サービスを提供してくれる事業所を探す日々が始まりました。数か月後何とか頼み込んで受けてくれる事業所が見つかりましたが、期間限定だったりして非常に不安定な状況が数年に渡り続きました。
夜間サービスを受けられない分、短期入所や通所サービスを利用しようとしましたが、人工呼吸器使用者で医療的ケアが必要ということで、受け入れてもらえるところはほとんどありませんでした。あったとしても条件が厳しくてやりたいことがやれなかったり、家族が送迎をしないといけなかったりと、結局、長続きしませんでした。
そうこうしていると市外の事業所が夜間サービスを受けてくれるようになり、一先ず以前と同じ状態に戻りました。
 私はこの経験から、福祉に市場原理を取り入れることの良い面と悪い面を知りました。また、どこにも受け入れ先がないことのしんどさも味わいました。そして、今後の日本の福祉制度は脆弱なものになる危険性を孕んでいることを理解しました。
つづく

 

Philia's History Vol.4
Ⅲ.親の高齢化
 親の高齢化は待ったなしで進行していきます。コムスン撤退後の2008年頃から、父親がぴっこを引いて歩くようになり、「一間接性リウマチ」と診断されました。それからすぐに、今度は足首の皮膚が壊死していく、「壊疽性皮膚膿症」という重い皮膚病にかかりました。これ以降、父親は入退院を繰り返すようになりました。しかし、病状は悪化する一方でした。最終的には足の親指を切断することになりました。
これまで私の介助は、家族(父母)とホームヘルパーに支えられてきましたが、父親をあてにできなくなりました。みるみるうちに我が家の家庭環境が変化しました。しかし、ホームヘルパーの支給時間は変わりません。父の穴は母が埋めるしかなく、母の介護負担が一気に増えてしまいました。
このうえ母まで倒れでもしたらと考えると不安で仕方がありませんでした。
私はこのとき、在宅生活の限界と親亡き後について意識せざるを得ませんでした。
母の負担を減らそうと、再び日中一時支援を利用したり、短期入所先を探したりしましたが、やはり話は進展しませんでした。
ようやくコムスン問題が落ち着いた矢先に、次の壁にぶつかり途方に暮れてしまいました。肩に重いものがのしかかって来るようでした。
自分の居場所がない。これ以上に辛い状況はないと思ったのと同時に、今がこれ以上にないどん底だとすれば、あとはここから這い上がるだけだ、追い込まれた人間の底力を見せてやると、覚悟がが決まりました。
そして私は、日本の障がい者福祉制度に疑問を持つようになりました。たとえ重度で医療的ケアが必要な障がい者でも胸を張って生きられる社会であって欲しいと強く思いました。
無いなら自ら作るしかない。こうして私はフィリアの会を発足する決意をしました。
つづく

 

Philia's History Vol.5

 

②つくる会設立
私が活動を開始しようとしていた2009年当初、この地域で身体障がい者が入所出来る施設は、2002年に開所した。西尾市の社会福祉法人「歩々の会」の運営する身体障がい者支援施設ピカリコだけでした。
他に施設がないので、ピカリコの短期入所は予約の取り合いが起きていました。ピカリコは私の弟の勤め先であり、理事長、施設長と親交がありましたので、ご協力をお願いして、短期入所を使いたくても使えない利用者の方たちに、私の思いを文書を配らせて頂きました。
こうして私の思いに賛同してくれた方たちと、2010年4月に市民団体「碧海5市・岡崎市地域に身体障がい者入所施設をつくる会(略称:つくる会)」を正式に発足しました。
つくる会の発足に協力して下さったのは、2004年ごろから親交のあった市議会議員の和田米吉氏でした。和田議員は安城市議の最高齢ではありましたが、人の良さがにじみ出ていて、弱者の声を聞いてくれて、一緒に怒って共に行動してくれる情に厚い人でした。和田議員の協力のもとで、盤石な体制でつくる会は前途洋々と活動を開始しました。
つづく

 

Philia's History Vol.6

 

③碧海5市長面談 厚生労働省政務官面談 安城市議会面談 
障がい者入所施設をつくる会として活動を開始した直後は、右も左もわからない状態でした。まずは安城市長、市議会議員にお会いし、在宅介護の現状を伝え、この地域で親に頼らずに、暮らし続けるためには、この地域(碧海5市・岡崎市)の拠点となる施設の必要性を訴えました。
この頃、民主党政権が発足して間もなかったので、政治が変わる期待感みたいなものかありました。私たちもその流れに乗り、衆院議員大西健介氏の口利きで厚生労働省政務官に陳情する機会に恵まれました。
早速、新幹線の切符を取ることになりました。これまでも何度も新幹線は利用していたので、新幹線の切符を取るのが一苦労なのを知っていましたが、苦労をわかってもらうため、切符の手配を和田議員にお願いすることにしました。
「車椅子使用者が駅の窓口で新幹線の切符を買う方法(2010年当時)」
Ⅰ 障がい者手帳を持って駅の窓口へ行く
障がい者割引を受けるには、「障がい者手帳」の提示を求められる。本人が車椅子に乗って買いに行っていても提示しないといけない。心の中では、どう見ても障がい者でしょうがと叫んでいる。しかも提示してもチラッと見るだけなのに。
不正なことをする心無い人たちのおかげもあり、本来なら必要なかったかもしれない苦労をさせられている。
Ⅱ 車椅子と他何人で、いつ、どこからどこまで、乗りたいか(候補1,2,3くらい)を告げる。障がい者手帳を見せる。
新幹線は車椅子のまま乗れる車両が、16車両目だけなので先約があると買えない恐れがあるので、先回りして予め候補を複数用意する癖がついている。
Ⅲ 乗降車時の駅員対応の確認
新幹線に車椅子で乗るには、座席の確認だけでなく、基本的に乗降車時は駅員が付き添うので、利用する各駅に確認する必要がある。
Ⅳ 一度帰宅し、手配完了の一報を受けて、再度駅へ
Ⅴ 窓口で切符を受取る
2020年現在、東京五輪・パラリンピックがあることや、2019年の参院選で、令和新選組から身体障がいを持つ議員2名が誕生したこともあり、web予約ができるようになりました。一度利用してみたいと思います。
このように時代と共に少しずつ改善されていくこともありますが、2010年当時、新幹線を利用するときは、これが当たり前でしたが、よく考えてみると何も不自由のない人たちが、スマホ一つで簡単に座席予約できる時代なのに、不自由な私たちが、2度も駅まで足を運ばなければならないのは、差別なのだと感じるようになりました。差別とは当たり前になっていると、差別されていても、差別と感じることさえなくなると気がつきました。
これで日本という国は本当の意味での先進国と言えるのでしょうか。私はその国の弱い立場にある人たちが感じていることが、その国の本性なのではないかと考えます。どんなに優れた技術や制度があったとしても、弱い立場の人たちにまで届かないならば、それは格差を生み出す装置になるだけです。そして格差は偏見と差別が生まれ、分断に繋がるのではと危惧しています。そうならないように小さな芽のうちに摘み取られることを期待しています。
私たち障がい当事者も、少しでも差別のない社会を実現するために、差別を感じたら声を上げる勇気を持つことも大切なことだと思います。
話が脱線してしまいましたが、この時は新幹線の手配を和田議員にお願いしましたので、私は苦労せずに済みましたが、和田さんはしみじみこんなに大変だとは思わなかったと言っていました。わかってくれる人が一人増えたことが、何よりも嬉しかったです。
人は格差を感じると怒りや虚しさに飲まれてしまいそうになりますが、誰か一人でも寄り添ってくれる良き理解者がいれば笑っていられるものです。
和田さんは弱い立場の人たちに寄り添い良き理解者となってくれる存在でした。そういう存在こそ真の友ではないかと思いました。
私たちつくる会も和田さんのように、弱い立場の人たちの友のような存在となれたらいいなと思いました。
そこからフィリア(ギリシャ語で友愛)という言葉を発見し、会報誌をフィリア通信と名付けました。
そして、それがつくる会の精神、願い、誓いとなりました。
新幹線以外の宿泊や移動車両等の手配は、衆院議員の大西健介氏の秘書さんがしてくれました。
こうして厚生労働省へ陳情するために、私と母、和田さん、ボランティア2名の合計5名て上京しました。
東京駅に到着し、待ち合わせ場所に行くと介護タクシーが待っていました。大西議員と落ち合う時間まで、憲政会館を見学する予定だったので、早速介護タクシーに乗り込み、憲政会館へ向かいました。
憲政会館を少し足早に見学し、衆院議員会館へ向かいました。会館の入口で大西議員秘書の方と落ち合い会館内へ。秘書の方の後について行くと、大西議員の部屋に到着しました。やっと落ち着けたので、さすが日本の中枢、セキュリティーも厳しいし、建物の構造も複雑だなと感心していると、大西議員が戻ってきました。挨拶もそこそこに、一緒に食堂でお昼ご飯を食べながら、今後の打ち合わせをしました。大西議員は次の予定のため、すぐに出掛けて行きました。私たちは秘書さんと国会議事堂を見学しました。
つづく